再度病気と戦う決意をした出来事
若くして余命宣告された状況下で私が前向きに生きるきっかけになったのは、7月上旬の突然の祖母の死です。
ですから四十九日頃を目処にホームページに改訂を加えることにしました。
こうして段々と前向きな方向へ変えていこうと思います。しかし特徴を出すために本音で語ることや、医療不信の件は従来通りです。
6月中旬か下旬に私のホームページを、祖母に全部見せたことがあります。
読む際には文字のサイズを最大にして、おしゃべりホームページという文字を読んでくれるソフトを使いました。
亡くなってからしばらくして父親から聞いたのですが、「この文章全部あの子が一人で書いたの?随分文章が上手くなったね。」というような事を言っていたそうです。まあ私もいつまでも子供ではないんですが、孫というのはいつまでも子供なんですね。
G病院で最終的な診断が下されてからは投げやりになって早く楽に死ねることを望んでいた私が、前向きに生きるきっかけになったのは冒頭に記載した7月上旬の突然の祖母の死がきっかけです。
前日の夜にはテレビ東京のにっぽんの歌を録画してあげて後日見る約束もしました。また一週間ぐらいで祖父の新盆のため、自分の兄弟が来ることをとても楽しみにしていたのに・・・・・・。
当日の朝も午前中もいつもと何ら変わりなかったのに・・・・・・。
が、母親が内線で祖母に昼ご飯を伝えても応答がなく、直接部屋に行ったら意識、呼吸とも無く倒れていました。母親に一大事を知らされて救急隊が来るまで私が人工呼吸もどきのようなことをやりましたが、全く反応がありません。その光景は地獄絵図でした。救急隊が来ても同じでした。かかりつけドクターのKクリニックK先生が来てわずかに心臓が動きましたが、翌朝搬送先の病院で亡くなりました。
私は内孫であり初孫でもありましたからよくかわいがられました。
進学、就職と13年7ヶ月の間実家を離れて暮らしていました。その間、極たまに下宿先へ来ることもありました。祖父や祖母が男の孫の下宿先へ来る等という話は聞いたことがないので、友人知人から驚かれました。
その後地元就職のため実家へ戻り、やっとの思いでそこそこの所へ就職し、さあこれからという時に突如宣告されたため2ヶ月足らずで退職することになってしまいました。
命の宣告をされるほどの病を患いやむなく仕事を止めて家の中で暮らすことが多くなってからは、祖母と接する時間が一番長かったように思います。ある意味一番の話し相手でもあり、友達の様でもありました。突然の祖母の死は私が命の宣告をされたときよりもショックな出来事でした。
祖母は私のことを慰めるのにとても悲しく苦しかったと思います。
西洋医学ではもう助からない病気なのに、治るよとよく言われました。そう言われると私は何を根拠に言ってるんだと怒りました。そのような時に祖母は返す言葉がありませんでしたし、私にはとても言葉を選んでソフトに対応することは出来ませんでした。
こういうやり取りのときは本当に苦しかったです。
80歳の祖母より先に孫が病死するなんて普通では考えられないことです。また、喧嘩なんかしたことなかったというおしどり夫婦の片割れの祖父も既に亡くなっているし相当祖母も悲しかったことでしょう。
とてもショックでしたが、もしかしたら不可能であったかもしれなかった祖母を見送るという大義名分を果たす事ができました。
実は祖母が亡くなる9か月半前に長患いだった前述の祖父を、祖父の死の6日後には同じく長患いだった叔父を亡くしました。祖父の死の3ヶ月半前には私が最悪半年の宣告を受けています。
21世紀になって最悪過ぎることが続いています。もういい加減、私にとって良い事があってもいい時期だと考えます。
葬儀の際には祈りながら、俺は再び病気と戦うから俺の脳を絶対守ってくれと何度もお願いしました。
今の私の目標はやはり病気前と同じ状態の完全社会復帰です。
祖母の死が生きる力を私に与えてくれたように思います。その日のために病気と戦い、必ず生き抜きます。
内孫=初孫が前向きになったこと、おばあちゃん喜んでくれてるかな。